ピンポンパーキンソンについて
N.バッハ氏は有名なロックシンガーですが2010年にパーキンソン病と診断されました。彼はシンコペーションのリズムが刻めなくなって一時期音楽活動から引退していたのですが、友人の勧めで週に数回卓球をするようになり、またギターが弾けるようになるまで回復しました。卓球のリハビリとしての有用性を確信した彼は世界卓球連盟ITTFに働きかけて世界パーキンソン卓球大会を開催するとともに、地元ニューヨークで卓球の練習を中心としたパーキンソン患者のための運動プログラムを立ち上げました。これが現在のピンポン・パーキンソンの礎となりました。そして第1回の世界パーキンソン卓球大会がきっかけとなり、このピンポン・パーキンソン運動(卓球をパーキンソン患者さんに!)は世界へと広がっていきます。今やUSA、UK、ドイツ、オランダ、スェーデン、スイス、ポルトガル、ブラジル、インド、そしてこの日本にそれぞれ支部が出来つつつあります。(真ん中の黒い帽子の男性がN.バッハ氏、右はITTFの前会長トーマス・バークハイト氏、左はITTF基金のディレクター、レアンドロ・オルベック氏。)
Tears for fears of further fall
(私が日本ピンポン・パーキンソンを始めた訳)
川合 寛道
10月11日にウエストチェスター卓球センターに足を踏み入れた時、私の気分は最悪だった。その前日我々は日本から長時間のフライトでNYに到着し、私はフライトの間ほとんど眠れなかった。私はその晩、8時前にコンフォートインのベッドに潜り込み、眠りに落ちた。
電話で叩き起こされた。我々のチームメートの一人が部屋に入った直後にひどいオフ状態になり部屋の中に閉じ込められていると連絡があった。彼女は部屋から救出されたが、NY州のルールによりウエストチェスターメディカルセンターへ搬送された。ERのドクターがわずか数分間のインタビューのあとで、我々に帰って良いとOKを出したのは深夜1時を回っていた。ホテルに帰るタクシーもつかまらず、病院の裏口の警備員が友達を呼んでくれて我々をホテルまで送り届けてくれた。結局再度ベッドに潜り込めたのは4時過ぎだった。
ふた晩続けての不眠。これが私が眠くて不機嫌な理由だった。
私は東京から参加された林栄一さんとダブルスを組むことになった。しかし実のところ私は彼とプレーするのは初めてだった。試合前の練習の時から林さんのすくみが強く、姿勢反射障害が強いことに私は気付いた。彼は転倒を避けるためにテーブルの上に手をついても良いかと審判に尋ねた。審判はITTFから派遣されていた審判部長に上申したが、答えはノーだった。ルールは変更されず、試合は始まった。林さんは試合中に二度転倒した。私は大変混乱して、どうして良いのかわからなくなってしまった。そのまま試合を続けるべきではないと思い、まるで会場から非難されているようにさえ感じた。会場のカメラが林さんのこける瞬間を撮っていると思うとカメラさえも我々に悪意を持っているかの様に感じたのだ。
でもまさにその瞬間、私は我々の対戦相手であったシンガポールのスニル・ラガハン氏の目に涙が浮かぶのを見た。彼は審判に強く抗議し、林さんが台に手をついても構わないと審判に申し出てくれた。私はその瞬間のことを忘れることはないだろう。彼の涙が会場の雰囲気を一変させた。彼が抗議してくれたことにより審判はついにルールの変更を認めた。この瞬間会場にいた我々は一つになった。卓球によりパーキンソン病と闘う患者としての一体感が我々を満たした。試合のあとで、彼は私にこう言った。「我々はみんな人間だ。ITTFがその根本に同意せず、ルールを人間より優先するのに我慢出来なかったんだ。」と。
試合は再開され、どんなスコアだったかは忘れてしまったが、我々は1回戦で敗退した。しかしその代りに私は最も貴重な瞬間を手に入れた。私はこの魔法のような瞬間のために遠路はるばる日本からNYまで来たのだと感じた。全ての試合が終わった後で、私はITTFの審判員の一人と話をした。彼女はITTFもパーキンソン病のことについてもっと学ばなければと言ってくれた。次回の世界大会にはルールがパーキンソン患者のために変更されることを望む。
最後に病院の裏口の警備員とスニルに感謝したい。君たちがしてくれたことを忘れない。